福場龍夫さんの話

福場龍夫さんのことを書かなきゃ、と思って、もう13年経ってしまいました。どう書いていいかわからず、手が止まってました。結果、このページになりました。

自分が福場さんと知り合った時期はハッキリ思い出せないです。その昔、電波新聞社「新しい雑誌」の会議を何度も繰り返していて、そこでお知り合いになったと思います。2006年か2007年あたりかと思います。

会議は高確率でBCLの話題で盛り上がるのですが、自分は世代が違うので、よく置いてけぼりになりました。福場さんはワイヤレス式のハンダこてとか、軍用無線機をプッシュしてました。自分が「本気の電子工作」という本を引き合いに出したら、福場さんから「それ私が作った本ですよ」との返事がきて驚きました。

 

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福場さんの名刺

福場さんから頂いた名刺がこちら。会社名も肩書もありません。白いです。相当なバイク好きだったみたいで、メールアドレスがバイクの型番になってました。

 その「新しい雑誌」の企画と並行して、「電池の本」を出すという企画がありました。2008年1~2月あたりだったと思います。

 福場さんが編集で、 私が太陽電池と充電池の電子工作のパートの記事担当ということで、何度か私の家(会社)まで来てくれました。

 

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福場さんから頂いたHP200LX

だいたいが電話してから突然やってきて、長々と雑談するというパターン。たい焼きとか肉まんとかペット入りの温かいお茶とかを「差し入れです!」と明るい笑顔で持ってくる。

「小さいコンピュータを持ってるのですが、いりますか!」という話になって、HP200LXを頂いたこともあります。わりといい歳なのに、明るい、気前がいい、ノリが学生という印象でした。

  

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人から借りっぱなしのバッ活

雑談中、何かの拍子で、福場さんが「バックアップ活用テクニックという本を出していた」という話になって、自分が「ここにありますよ」とバッ活(人から借りっぱなしのやつ)を見せたら、「なんで持っているんですか!?」と驚いてくれたことがあります。この時の福場さんの心底嬉しそうな顔を覚えてます。 初代編集長だったのは後で知りました。

そして、2008年の2月ごろだったと思うのですが、事件が起きます。自分は電池の本の原稿を半分くらいを送っていた状態でした。福場さんが家まで打ち合わせに来てくれていました。自分がいつもどおり雑談でもしようかと思ったところで、福場さんが「あ、ごめんなさい」といって、会話が中断。

それから、福場さんが「朝から具合が悪くて。今日はすぐ帰ります。いやー、寝違えちゃってー、、、」と言いつつ、帰りました。この時、自分は、ああ具合が悪かったのか、というくらいの反応でした。その後、人づてに聞いたのは、福場さんがご病気で倒れられたということ。この件は思い出すことを拒否したり、思い出したりの繰り返しです。

あの時の福場さんはどうだったのか? 「寝違えちゃって」と重々しく言いながら首に手を当てている様子とか、いつもと全く違っていた場の雰囲気、深刻で暗い表情が、今も目に浮かびます。あの時の「寝違えた」というのは間違いだった。きっかけが自分の仕事だったと思うと、やりきれない。

福場さんたちと何度か会議を重ねていた「新しい雑誌」は、5か月くらい後に出来上がりました。「電子工作マガジン」です。

あと、「電池の本」の企画は編集を替えて、2008年の12月ごろに再開しましたが、自分の書いた原稿と作品は全部ボツになりました。

あとで、人づてに聞いた話では、その昔、福場さんは元は電波新聞社に居たが、いろいろあって三才ブックスに転職したとのこと。「いろいろあった」部分は触れませんが、移るきっかけは、BCLの神様的な存在だった山田耕嗣さんの紹介だったとのこと。

あの件以来、福場さんの業績はもっと知られるべきだ、と心に留めていました。 

偶然気が付いたのが、1994年発行の「バックアップ活用テクニック総集編パート2」「バッ活 創刊ウラ話」 という記事。これにバッ活の思い出話が4ページほど載っています。記事を書いたのは誌面で大々々活躍していた丹治佐一.さん(名前の最後に点を付ける)。バッ活は8年間で全38冊が発行されました。重要なのが、以下のくだり、、、

ここでバラしてしまいますが、編集F氏(現在では三才ブックスの中でとても偉い人になってしまった)と筆者とは、別の出版社からの付き合いで、現在(94年)で16年ほどにもなります。筆者の仲間と一緒に遊んでいる内に、 筆者と同じ町内に引っ越してきてしまったというほど、仕事を離れてのプライベートでの付き合いも多く、遊んでいるのか仕事をしているのか、時にわからなくなってしまいます。バカ話から生まれた企画も数多くあります。

ここで書かれている「F氏」とは福場さんのことで、「別の出版社」とは電波新聞社のこと。「偉い人」とは編集長よりも上のポストになっているという意味です。

丹治さんは秋葉原マイコンショップ「X1」に入り浸っていたところをスカウトされて、「ラジオの製作」の1979年6月号の特集でデビューしています。「16年」を「16年目」と解釈すると1979年になるので、掲載時期と一致します。これが、福場さんが電波新聞社で「ラジオの製作」の編集をやっていたという証拠になる、はず。

1980年当時、三才ブックスは雑誌「ラジオライフ」を出していました。ラジオライフは普通の雑誌でしたが、90年代あたりで盗聴とか偽造ネタを扱い始めてどんどんアングラ化します。今も売ってます。

以下のページで福場さんを確認できます。「ラジオライフ1981年11月号」の編集後記、、、

「ボク、新入社員のFです。」というわけで、汗をかきながら 編集後記を書いています。ところで、今月号の業務無線特集はいかがでしたか?!アマチュア無線のことしか知らなかったボクにとって、未知の電波との遭遇ともいえる業務無線の世界には、 驚きと冒険の連続です。特集を読まれた読者の皆さんが、ボクと同じ驚きを実体験していただければ幸いです。11月号より編集部員の一人となりましたのも無線というすばらしい趣味を持 つ者同志の縁といえましょう。全力をつくし、楽しい記事、耳よりな記事を編集していくつもりです。皆さまの応援のほど、よろしくお願いします。(F)

この新入社員「F」が福場さん。この時はイニシャルですが、1982年12月号から実名になります。1981年11月号(10月売り)ということは、入社時期は1981年9月あたりでしょうか?

編集後記の一番左上に福場さんが載るのが1983年9月号。これ以降、編集長になったと思います。それを裏付けるのが、ラジオライフ1985年1月号」の編集後記、、、

編集長が替わります。一昨年の夏この仕事につき、1年以上にたちます。短すぎるのではと思われるかも知れませんが、 RLのモットー”いつもフレッシュな情報を提供する”ためには、若返りも不可欠!!私よりン歳も若い甕岡部員へのタッチは次号からです。若々しく充実した記事をこれまで以上に楽しんで頂けると思います。つきましては、ご指導、ご鞭撻の程、お願いいたします。(福場

知らない間に編集長になって、もう交替のお知らせです。この後、バッ活の編集長になります

 

以上のことから、福場さんのお仕事をまとめてみました。

*抜けている部分はあとで足して、 間違いがあったら直したいと思います。

 

・~ 1981年?月:「ラジオの製作」の編集

・1981年9月あたり?~1984年末:「ラジオライフ」編集/編集長

・(1981年11月号~1983年8月号)「ラジオライフ」編集

・(1983年9月号~1985年1月号)「ラジオライフ」編集長

1984年11月発行:「魅惑の軍用無線機」編集。

・1985年7月15日発行~:「バックアップ活用テクニック1」編集長

 

あと、検索したら出てきた情報が、以下の通りです。

・1989年:「PC-9801(&PC-286)活用テクニック」編集。
・?:「PC-9801(&PC-286)活用テクニック2」編集。
・1990年:「PC-9801(&PC-98NOTE)活用テクニック3」編集。
・1990年:「PC-9801(&PC-98NOTE)活用テクニック4」編集。
・?:「PC-9801(&386NOTE A)活用テクニック5」編集。

・2006年:「本気の電子工作」編集、「インターネットをトラブルゼロでいつも快適に使う本」著者

 ・2007年:「新スピーカーの完全自作2」著者、「最新LED活用工作ガイド」著者

 

個人的に一番知りたいのは、ラ製付録だったベーマガ(1981年5月号~)に福場さんが関わっていたかどうかですが、どうなのでしょう?

福場さんの業績はもっと知られるべきだと思います。